おはぎ

朝起きて曇り空。かなり涼しい。
昨夜は少し興奮気味に買ったばかりの「ブレードランナーの未来世紀」を貪るように読んだ。実はこの本は映画解説本ではなかった。映画を入り口にアメリカの文化と思想について鋭く書かれていた。アメリカとはそもそも自由と民主を掲げたイデオロギー国家であり、ソ連崩壊後の現在も未だ実験が継続されている体制だ。主要産業である映画はその時々の政権によって内容を操作される媒体であるのだが、その中で80年代にいくつかカルト的な映画が作られることがあった。昨夜読んだのは表題にもなっている「ブレードランナー」の箇所。公開は1982年。ポストモダンの流れが思想界や建築界に広まっていた。
モダニズム建築とは装飾を廃し四角い幾何学的な箱形の建物を目指す主義だが、ポストモダン建築はそれをつまらないと批判し、多様性、装飾性、折衷性、過剰性などを取り入れた様式を言う。2019年のロスが舞台のこの映画では、ゴテゴテと装飾の施されたビルが登場し、多国籍言語が飛び交い、街はまさにポストモダンの混沌が渦巻いている。この映画以降、”清潔で合理的な都市風景”というイメージで未来社会は描かれなくなるという。
原作者のフィリップ・K・ディックのプロフィールには驚かされた。「自分は自分でないかもしれない」「いや、存在すらしないのかもしれない」「自分は他の誰かの夢の登場人物かもしれない」これがディックの繰り返し描く不安だった。これはブレードランナーに追われるレプリカントたちの不安そのものだった。ディック氏は「分裂病」と診断されていたという。
時代はポストモダン。未来に向けて物事が良くなっていく、という近代(モダン)を否定するポストモダンは、その進歩の物語をも打ち砕いた。社会も思想も進むべき道を見失い、世界は混沌に包まれる。著者はデッカードを”主体無き時代の主人公”と書いた。
レプリカントか人間か。テストをして見破ったデッカードだが、実はデッカード自身もレプリカントだった。この設定は原作者ディック氏の”存在の不安”を具象化している。
今居る世界が実は現実ではないかもしれない、という浮遊感。ネット世界の発達でもう一人の自分をネット世界に住まわせる時代ともなれば、まさにこの映画で描かれた世界観が現実となる。”カルト映画”と簡単に打ち捨てていいのかどうか・・・。
お茶の時間に女房が作ってくれたおはぎを頂いた。うまかった(^^)。ワタシの母親が作った餡子を女房と娘で丸めたもの。三世代合作おはぎであります。
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2006-09-23 | Posted in 甘露日記Comments Closed 

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