2001.05.07. 清張の『邪推』

今日の夕刊に、清張の『邪推』というタイトルのコラムあり。

「昭和30年代の松本清張は飛ぶ鳥も落とす勢いだった。が、39年に中央公論社が刊行した「日本の文学」全80巻からは外された。清張は落胆、怒りは激しかった。」この書き出しからして面白い。現在の古書市場では揃ってもたいした金額にはならないこの全集ではあるが、それは売れに売れて数が多いからである。当時そういう権威ある全集に選ばれることはかなりの名誉であっただろう。選ばれなかった事によるその怒りは内にこもる事はなかった。「邪推」という形で表に出たのである。

「以後、7人の編集委員のうち谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫の”純文学3人組”が自分を排除したと清張は死ぬまで思い続けた。」実際には三島由紀夫が強硬な反対をしたことが主要因だったと、当時の清張担当編集者だった宮田毬栄氏が「松本清張研究」第2号に書いているという。それにしても編集委員の豪華なこと!今日文学全集を編もうとしても、こんな面子が編集委員として揃うことなど考えられない。

さて、純文学作家が調子を落として書く「中間小説」を清張は厳しく批判していた。当時「中間小説」を書いていた三島、同じ編集委員だった大岡昇平、高見順は清張の意見に反発し、この全集からはずすということで”意趣返し”をしたのではないか、とこのコラムの筆者は続ける。大岡、高見は36年以降の純文学論争で清張と対立していたともいう。

「芥川賞作家でありながら時代の潮流をつかんでベストセラーを連発する清張へのやっかみは相当強かったろう。対立の根は深く広い。」本屋をしていながらお恥ずかしい話だが、こういう対立があったことを今日初めて知った。
自分を排除しようとする巨大な力を仮想敵に据え、反撃の力を養ったのであろう。「実力なら自分の方が上だ」と。

文壇のこうした対立は、当時は有名だったのかもしれないが、文章として残っていなければ亡くなって時間が経てば次第に忘れられていく。しかし、だから大した事ないと打ち捨てられていい問題ではないだろう。清張に限ったことではない。どんな想いを胸に秘めながら作家は小説を書き続けたのか。作家の人間像を鮮明に浮かび上がらせることは文学を知ろうとする上で重要な要素であることに間違いない。

2001-05-07 | Posted in 甘露日記Comments Closed 

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