夏休み前

朝から晴れ。朝から暑い(^^;。

息子は月曜日から夏期講習に行っており、起きたらすでに出かけていて居なかった。朝飯を食べながら高校野球を見る。彼らのモチベーションはどこから湧いてくるのかな、とか思ったり。

鋭意荷造り作業。いつもお買い上げありがとうございます。昼前に一段落したので交換会へ向かった。

車中では先日来読んでいる東浩紀著「ゲーム的リアリズムの誕生・動物化するポストモダン2」を読む。いよいよゲーム的リアリズムについての記述。著者は具体的に作品名を挙げ、その内容を紹介(批評)することでポストモダン時代の”文学”がどのような形を取っているかについて解説をしている。特に驚いたのは、表題にもあるとおり、文学がゲームという形になって表現されている、という指摘だ。ゲームといってもシューティングゲームのようなものではなく、代表的なものは美少女ゲームといえるだろうか。単純に言えば、プレーヤーがゲームの中で登場する女の子を口説く、という事なのだけど、重要なのはゲームの構造だ。プレーヤーはタイミングタイミングでゲームに「どうしますか?」と選択を迫られる。その選択の組み合わせによってエンディングが複数用意されている。ハッピーエンドにもなればバッドエンドにもなる。
これは人の生き方もまたその時その時の”選択”の積み重ねによって変わっていく(のではないか)と考えてしまう気分に似ている。女の子を口説くというゲーム目的は置いても、連続していく選択によってストーリーと結末が変わっていくところに”ゲーム的なリアリズム”が発生する。
「あの時ああしておけば」という後悔。ゲームは”リセット”することで再チャレンジが可能だ。この「再チャレンジ」という言葉をよく聞くようになったのはいつごろだったか。勝ち組負け組なんていう言葉とセットだった気がするのだが・・・。
かつて文学がはじめからおわりまで一直線に物語を語れた時代は”大きな物語”と共に過ぎ去り、ポストモダンの現在は途中で選択を繰り返しながら時にリセット可能で複数の結末が用意されているゲーム的な文学に主流が移っている、と著者は指摘する。現代はプレイヤーがあたかもゲーム上でプレイしているようなシミュラクルにこそリアル感を得るということか。それとも、ゲームのようにやり直し可能な”設定”を理想として欲しているということなのか。

入札を終えて昼飯へ。明日から古書会館が夏休みにはいるので、運送の申し込みをしておいた。助かります。

女房と娘は1泊の予定で夏休み。夕食前に帰ってきた息子はお友達のところへ行ってしまい、ワタシは弁当を買ってきて夕食を済ませた。食べながらつい「ふたり」を一人でもう一度観た。二度観て気づいた事あり。宮崎駿監督がヒット作を得て超多忙になったことで不在がちになり、息子の吾朗さんを「母子家庭」のようにしてしまった、とつぶやいていたが、それは「コクリコ坂から」の主人公・海ちゃんの幼い頃にお父さんを亡くしたという設定に反映されていた(!)。海ちゃんをどう描くか、は、吾朗監督の内面そのものの表現だったわけだ。「こんな魂のない絵」と宮崎駿監督は一喝していたが、そこには同じ表現者としての立場だけでなく、やはり親子の感情も混じっていたんじゃないか、と思った。
親にとって、子供はどんなに大きくなっても一生子供であることに変わりがないんだよねー・・・(^^;。そういう感情はワタシにもあるからわかる。
4271歩 2.55km 41分 207.6kcal 5.1g

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このページは、甘露日記が2011年8月10日 23:59に書いたブログ記事です。

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