いい天気。
今日は家族それぞれ別行動。息子はお友だちと映画へ。女房と娘は渋谷の児童会館で人形劇。ワタシは恵比寿へ森山大道展を見に行くつもり。
10時半に出て目黒駅から歩く。到着は11時すぎ。2階がハワイの会場になっていた。入ると壁が取っ払われており、ドーンドーンと大きな写真が壁面に並んでいる。インクジェットだね。舞台はハワイだが、森山さんは撮り方をいささかも変えない。そこにはdaido的世界が広がっていた。展示の最後にスライド上映もあり、ハワイでの撮影風景も時折流れた。さすがハワイだけに軽装なカッコで撮影に没頭する森山さん。首からGR、肩から一眼レフを提げてとっかえひっかえしていた。無論、フィルムカメラ使用である。
3階はレトロスペクティブ。ハワイとは打って変わってにっぽん劇場のころからのヴィンテージプリントが額装され、整然と陳列されていた。時代が下るにつれてプリントも大きくなっていくのは、やはり著名になったことの証だろうか。
写真とその横に時折掲げられている解説を見ながら展示を見進めていくと、その時その時の森山さんの様子がほの見えてくる。撮ろうと思い、シャッターを切る。そして、上がってきたネガを写真に焼く。このプロセスを経ることによって、その時森山さんの見た光景と時間は写真として定着される。それはまぎれもなく、森山さん自身の記録でもあるのだ。
60年代から続く活動は決して平坦なものではなかった。「内臓」で写真を撮る森山さんにとって、作品は自分自身の内面をさらけ出すことと同義だった。内面の劇的ともいえる変化がこの展覧会でも確認できる。70年代から80年代へ移っていくころのことだ。重く沈んだトーンで表現される北海道を撮影したあと、いきなり日向の明るい庭先に咲く牡丹の花が写っている写真が来る。
この間に何があったのかについては解説にある。70年代の終わりに「写真の肉離れ」が進み、極度のスランプに陥り写真の撮影ができなくなっていた、ということだった。
80年代に入り、「写真時代」に連載されたシリーズで復帰を果たした森山さんは、光を単純に捉えるという視点で再び自分と向き合い出す。その後、ヒステリックグラマーが発行する一連のシリーズで再び街にフィールドが移り、生まれ故郷の大阪の雑踏を撮影する。この中に千日前が大写しされた写真があってしばし見つめた。確かに元気でなければこういう写真は撮れない。
写真はまるで木の年輪のように森山さんの内面を記録していた。
いつものようにビヤホールで昼飯を食べた後、山手線に乗った。上野でバウハウス展が開催されていた。
上野駅はものすごい混雑だった。公園を抜けて芸大美術館。初めて入るな、ここ。
バウハウスは1919年にドイツで設立された教育機関。一般には工業デザインで知られている。が、当然、デザインのその向こう側には緻密に設計された哲学が存在していた。
フランスでは同時期にアール・デコが興っている。やはり工業化が進んできたことで今まで主体だった手工業から機械生産へと時代がシフトし始めたことによる「肉離れ」が変化の背景にある。少数の手工業生産から大量の機械生産へと工業製品の作り方が切り替わるとき、製品の装飾やデザインもまた新たなデザインを必要とした。アール・デコは伝統的なモチーフ(植物など)をモダンデザインへと変換することを試みたのに対し、バウハウスはいきなり幾何学的な考えをデザインに持ち込んだ。
それは、展示されている作品を一目見ればすぐにわかる。丸、三角、四角、直線。これらを数学的に組み合わせたデザインが紙に書きとめてある。その結果出来上がってきた製品、たとえば、イスや食器、花器やランプシェードなどのデザインは非常にモダンで、製造年代がわからないほどに普遍性を獲得している。有機的な要素を極力排除して幾何学まで一気に進めたバウハウスデザインは、すでにひとつの頂きを極めていた様に思う。
有機物(アナログ)の頂点である人間が無機物(デジタル)のひとつの局である幾何学にあこがれるのは自然なことなのかもしれない。その一方で、デジタルをそのままの形でアナログ(人間)は理解できない。この場合、その両者の間に立つ存在(インタープリター)がバウハウスだったのではないか、と思う。
カンディンスキー、パウル・クレー、ラスロ・モホリ=ナジ、ミース・ファンデルローエ。キラ星のごとく輝く、彼らビッグ・ネームたちはバウハウスにかかわっていた。
バウハウス校長室が実物大で再現されていた。非常にすっきりとした幾何学的なインテリア。直線と直角で構成された一切の無駄を削いだデザインは、ワタシには神経質に見えて居心地の悪さを感じた(^^;。
グロピウスから校長を引き継いだマイヤーが共産主義者だったことにより、ナチスから弾圧を受け1933年にバウハウスは閉鎖となったという。
内臓で写真を撮るアナログの森山大道的世界と、どこまで無機に近づけるかに挑戦したバウハウスの両極端な表現に触れたあと、ワタシの足は自然に谷中へと向かって歩き出していた。
この間女房と娘と3人で歩いたばかりだったが、ちょうどホライズンを持っていたこともあって、谷中散歩することにした。
芸大を出るとすぐに上野桜木へ出る。信号を渡って右手に古い醬油屋さんの建物を見て、左手に岡埜栄泉。スカイ・ザ・バスハウス横を左に入っていく。谷中は寺町なので、まっすぐ続く道に沿ってずっと塀が続いていることがある。その向こう側には墓地がひろがり、本堂の屋根が覗いている。空が広い。
まっすぐ進んでいる道がある一方で、昔からあるであろう細い路地が思わぬところから入ってきて交差する場所もある。戦災で焼けなかったため、戦前の街の様子の一端がこういうかたちで保存されている。
広い道の突きあたりが大きなお寺、という道の傍らに、何十年も前から立っていると思われるヒマラヤ杉のある分かれ道。その日陰に建つパン屋さんは今日も元気に営業中。
路地を歩いているうちに谷中銀座へ出た。せっかくなので夕焼けだんだんを写す。以前は平日にこのあたりを歩いていたので、ガラガラな商店街ばかり見ていたけど、休日となれば食べ歩きができる商店街として今や一大観光地化している感がある。これもひとつの再開発か。
よみせ通りをずっと歩いてしまいまで。大通りへ出る。都道457号線で、起点は千駄木。西日暮里を通って町屋の方までつながっている。途中、アラーキーの原点さっちんの舞台:三河島のそばも通るようだ。
再び路地を歩いて谷中方向へ戻る。途中スケールのでかい富士見坂があって、おばあさんがゆっくりゆっくり降りてくるところだった。
谷中銀座の夕焼けだんだん前に出たので、そのまま上がって谷中墓地。桜並木を歩き、再び上野桜木へ至る。上野公園を突っ切ってアメ横前。閉店した聚楽を写しておく。大混雑のアメ横を歩いてそのまま御徒町、秋葉原。Yカメラでキーボードカバーを購入し、帰りの電車に乗った。フィルムは6本も撮影していた。
車内では今日も「坂の上の雲」を読む。事態はいよいよ緊迫し、日露両国とも戦争準備に入っていく。
25978歩 15.58km 230分 1282.0kcal 38.4g

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