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荒木経惟写真全集3
陽子 Yoko


 この全集の中で一番売れた巻は、この第3巻「陽子」である。筆者もこの巻が一番好きだ。表紙を飾る写真は、陽子さんの遺影にも選ばれ、荒木さんをして「生涯でベストワンの写真になるだろう」と言わしめた。

 人はどんな時カメラを手にし、写真を撮るのだろう。人生のハレの日、人はそれを記録しようと思い、カメラに手を伸ばす。結婚式の写真を撮らないと思う人はほとんど居ない。では普段の日は?人生は普段の日の連続だ。新婚旅行から帰れば、あとは結婚生活という普段の日が毎日のように続くことになる。これを日常と言う。結婚式などのハレの日は一生のうちで何度もない事だから非日常と言えよう。日常は写真にする価値は無いのだろうか。この巻を読めば、日常ほど尊いものはない、という気持ちになるに違いない。

 電通での出会いから死別まで。恋人時代、新婚旅行、毎日の生活と、陽子さんという一人の女性と夫婦として過ごした荒木さんの人生の一部が編まれているわけだが、それが編年で順序よく並んでいるため、被写体である陽子さんと見ている読者は同じ人生の時間を共有しているような錯覚に陥る。途中に挿入される陽子さんの文章は全部読んでしまった。読者は荒木さんのカメラという装置を介して、出会いから別れまでをあたかも自分のことのように追体験してしまい、カメラを持つ荒木さんに注がれた陽子さんの視線に見つめられ、妙にどきどきしてしまう。そして死の予感が漂う後半になるにつれて陽子さんの病状が心配で仕方が無い。他人事という気がしない。声が聞こえてこないのが不思議なくらい、我々は荒木夫妻の間に割って入ってしまっている。

 「私写真」「写真人生」。荒木さんにとって写真は「私」的なものであり、「人生」そのものだ。日常という名の人生を撮りつづけ、集めて並べればこれだけドラマチックな物語が出来上がるのだ。荒木さんは写真家としてカメラを持っていながらも、私写真家を標榜しているだけに、撮影された写真には「私」としての荒木さんの視線が残っている。夫である荒木さんが妻である陽子さんを撮りつづけるのは写真作家でなくても極普通のことであるが、普通と違うのはそれが「作品」となって世に出される点だ。これだけ身近な女性を20年にわたって詳細に撮りつづけ、作品として発表した写真家をほかに知らない。これは単なる夫婦写真ではない。れっきとした私小説なのだ。
 陽子さんの表情をもっとよく見て欲しい。キラキラと輝いているではないか。陽子さんより容姿の優れた女性は世の中にいっぱいいるかもしれない。しかし、一人の男性から本物の愛を受けた女性は、これだけ魅力的な存在になるのである。

 

 家に帰れば父親がいる。母親がいる。女房がいる。子供がいる。それが筆者の日常の一部である。しかし、その日常は少しづつであるが、変化していく。両親は老年へと差し掛かる。女房は齢を重ねていく。子供は日々成長し、学校へ行き、自身の物語へと踏み出していく。10年後、自分を取り巻く日常はどのように変化しているだろう。もちろん、同じであろう筈がない。そう考える時、なにげなく過ごしている日常は、実は何年も続くことなどない儚く脆いものだということに気が付く。重要なようでいてすぐに忘れてしまうようなハレの日の何倍もの重みを備えてくる。代わり映えのしない日常のなんと稀有なことか。

 

 荒木さんの写真作家としての第一作にして代表作である「センチメンタルな旅」は、夫婦の道行きがテーマだった。一人の女性と人生を共有していくこと、それを「センチメンタルな旅」だと表現している。とても共感できる言葉だ。そのセンチメンタルな旅は陽子さんが他界するという不幸にも彩られながら、荒木さんの中で現在も進行中だ。この旅はきっと荒木さんが他界するまで続くに違いない。

 

 「記憶は消え去っても、記録は残る。愛は消えても、幸せであった頃の写真だけは残るのだ。」陽子さんの綴った一番印象に残っている言葉である。

 

1999年12月14日記