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荒木経惟写真全集2
裸景 Bodyscapes


 やはり「顔」がキーワードである。ここに載っているヌードにはどれも顔はない。顔のないヌードがこの巻のすべてである。
 世の中、ヌードが氾濫している。書店やコンビニの雑誌売り場は勿論だが、その広告という形をとって満員の通勤電車内にまでヌードは進出する。それが良いことか悪いことか、などということはどうでもいい事なのだが、現代の日本にはそれだけヌードが溢れているということなのだ。
 これだけヌードが出るには理由がある。それは圧倒的多数の「見たい人」に支えられて、「ヌードになる人」と、それを「撮って売る人」がいる為だ。ただし、週刊誌レベルの出版部数に載るヌードの絶対条件のひとつに「美人のヌード」というものがある。勿論、「顔」が無くては売り物にならず、有名人であればあるだけ売上も伸びる。元アイドルがヌードになるなど、典型的といえるだろう。そこには思想のかけらも無い。もともと男の本能に訴える商品であるから、思想はあるだけ余計なのだろう。ただ「売れる」から脱ぐというだけのヌード写真が際限なく作られつづけている。
 そんな世の中のヌード事情から考えると、「裸景」のヌードは勿論「売れるヌード」ではない。それどころか、撮影者が荒木経惟である、という事がなければ発表すら覚束ないかもしれない。それだけ「美人」の「ニコパチヌード」に世の中が慣らされている。
 ヌードとくれば圧倒的多数の「見たい人」である男がニヤニヤしながら見るものと相場が決まっているが、この「裸景」という顔のないヌード群を見せられると、ニヤニヤなどできない。むしろ、見れば見るだけ怖くなってくる。男が本能的に求める「女」の部分のなんと薄気味悪いことか。顔という感情を表す部分がない「女」は男にとって性的対象にはならない。それは夜中に見るマネキンの不気味さに似た感覚だ。
 ヌード写真から「顔」という要素が取り外されただけで、読者はニヤニヤどころか不安定な場所へ突き落とされる。解説を要するほど難解な内容になる。あとがきで荒木さんは「顔がない、裸だけで官能性が出せないかと思ってやってみた」と語っているが、それは撮影者の感覚であり、見る者(解説の富岡多恵子)にとっては異界を想像させる作品集に仕上がってしまった。勿論、「死」は「官能的」であるとも言えるが・・・。

1999年12月7日記