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荒木経惟写真全集13
ゼロックス写真帖 Xeroxed Photo Albums

 実は、ゼロックス写真帖の実物を何度か見たことがある。いずれも古書業界の同業者間で行なわれる交換会でのことだ。一度、一般の人も入札できる明治古典会七夕大入札会にも出品された。限定70部の本だと聞いていたこととは関係なく、実際に目の当たりにしてみると、その”もの”としての存在がなにか信じられない気持ちになった。荒木経惟書誌をまとめたS氏は、見た瞬間「震えが来た」と語っていた。彼もうわさには聞いていたが、実物を見たのは初めてであったそうだ。
 このときの取引値段はたしか300万円くらいだったと記憶している。冷静に見てしまえば数枚のコピーされた写真が赤い綴紐でくくられているだけの本である。その金額が高いか安いかは、その写真帖を目の前にしないことには判断することはできないだろう。落札金額が発声された瞬間、筆者の口から思わず出た言葉は「やっぱりね・・・」であった。

 さて、この写真帖たち。荒木さんがまだ電通の社員だった頃、文書課にいた陽子さんにコピーしてもらったりして作り上げたという話は、いまではすっかり有名になった。時代は’70年。中平卓馬や森山大道に代表される、荒れ・ブレ写真のザラザラしたトーンが、荒木さんをはじめ当時の写真家に大きな影響を与えていた。その影響もあってか、この写真帖にはかすれたような切ないトーンが全編にわたって共通しており、印象を大きなものにしている。
 内容は、顔だったり、近所のおやじだったり、荒木さんのイラストだったり、コピーだと思ったらオリジナルプリントだったり、多種多様であるが、その中の一編、「夏休み」という作品が一番心に引っかかった。
 夏休み。神社で3人の子供たちが虫取り網片手に社から飛び出してくる。なにか得体の知れない顔をした人が建物の暗がりにひとり佇んでいる。お面を頭の後ろにつけた3人の子供たちが原っぱを駆け抜ける。お面をして休む子供。麦藁帽子。お面をした狛犬。草っ原でお面の人。郵便受けの横で座る子供。そして団地へ3人の子供と一緒に帰るお面の人。この人は3人の母親だったのだ。
 あとがきを読めば、このお面は紙粘土で彼らが作ったもの、とわかる。しかし、なんの予備知識なくこの作品を見ると、コピー特有のかすれたトーンは、むしろお面を顔と一体化させて表現してくる。最初に神社の社のカットがあるため、お面をつけた彼らは妖精か妖怪のように見えてしまう。狛犬もアクセントだ。妖精たちが広場を駆け抜け、街に佇み、母親と帰る先が団地、というストーリーはなかなか深い。普段は団地住まいになってしまった現代の妖精たち。つかの間の夏休みに以前住んでいた神社へと里帰りしたのである。荒木さんがそう考えてこれを作ったかどうかはわからない。しかし、発表された時点で写真は荒木さんのもとを離れ、見た人それぞれのなかで違ったストーリーを語りだすのである。筆者の場合、どこか御伽噺のような形で心に定着した。

 後半には、カラーコピーされた作品が並ぶ。「カラーコピーの色っていうのは、妙になまめかしい。写真でもないし、印刷物でもない。そのちょうど中間の状態、まだ温もりというか体温が残ってる感じがいいんだね。」とあとがきで語る荒木さんの写真展では、大きく伸ばされた写真ならぬカラーコピーが、会場所狭しと展示される。たしかにカラーコピー特有のトーンというものがあって、その独特の色の出方、かすれ具合には、”写真”と思って見る者をどこかではぐらかす何かがある。カラー写真が「投げ出された現実」なら、カラーコピーは「テレビの生中継」といえばこのニュアンスが伝わるだろうか。最近のカラー写真は安くてきれいに仕上がる。そのため、必要以上に”現実以上の現実”を相手に伝えてしまいがちだ。その反対にカラーコピーは写っている”現実”と見る者の間に少しだけ距離という要素を挿入する。事件の生中継。今起こっている事なのにTVを通してしか見られないという距離感。現物がはっきり写っているようでいて、よく見るとコピーだったというノイズ感。そんなようなことだ。
 「カラーコピーは色にしろぺらぺらした紙の感じにしろ、完成品っぽくないところがいい。」と荒木さんはいう。完成という言葉には終わりの意味が含まれている。完成を宣言する時、荒木さんの写真人生は終わるのだ。読者としてはその日が来ないことを祈りたい。

2000年2月22日記