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荒木経惟写真全集11
廃墟で  In Ruins

 人はどんな時、空を仰ぐのだろうか。

 朝、早起きをして朝焼けがきれいだった時。夕方、暗くなるまで遊んでの帰り道に、ふと振り返ってみたらきれいな夕焼けを見られた時。日曜日、楽しみにしていたお出かけが雨で中止になった時。など。筆者の日常で空を仰ぐ時はそんなものだ。東京で生活をしていると、意外と真昼間、空を見上げる事は少ない。デスクワークや勉強で明るいうちは屋根の下という人も少なくないかもしれない。
 荒木さんはこの巻でもうひとつ、身近な愛する人を失った時に空を仰ぎたくなる、ということを写真集「空景/近景」で発表した。本全集ではこの第11巻に当たる。

 自分にとって身近な存在が欠けることで感じる喪失感は、時と場合によるものの計り知れなく大きくなることがある。冒頭で「妻が逝って、部屋の中から空ばかり写していたわけではない。」と始まる12行の荒木さんの言葉は漂うような文字で綴られ、哀しみに満ちている。「東京日和」のなかで陽子さんが朝食を用意していたバルコニーのテーブルはこの写真集の中で錆びついた「廃墟」となり、極楽鳥花と仏焔花が飾られている。バルコニーのテーブルで写すべき陽子さんを喪った、という荒木さんの想いがこの写真を最初に配させたのではないだろうか。陽子さんをいちばん感じる自宅のバルコニーを写場に、「彼女を思いだすものがたくさん残っていて、それをひとつひとつ撮っていくところから、ブツ撮りが始まった」と荒木さんは語っている。
 陽子さんのリーボックと荒木さんのアシックスのジョギングシューズが仲良く写っている前半のあと、次第に空のモノクロ写真が多くなり、リキテックスで着色した「空景」へ至る。解説の竹中直人は「空は泣いている」と言った。羊雲が、鰯雲が、鱗雲が、太陽が、泣いているようだ。空は撮影者の気持ちをそのまま返してくる。すがすがしい気持ちの時にシャッターを切れば鮮やかですっきりとした空が写る。しかし、泣きたい時にシャッターを切れば、それが晴れていようが、曇っていようが、空は「空景」と化す。身近な愛する人がいなくなったとき、空を仰ぐのは流れる涙を隠すためかもしれない。
 リキテックスを境に、後半はカラー写真が多くなる。陽子さんと過ごした「時」を感じながらブツ撮りをした「廃墟」写真から、最後には夏の強い日差しを浴びる「楽園」を意識した写真へ移行する。しかし、その途中には、またモノクロの空の写真が入ったり、アラキネマ「サマータイム」では、夏の空が陰陽ひっくり返ったネガのまま表現され、なかなか気持ちの晴れない荒木さんがそのまま写っている。

 ワニーン、大トカゲ、テンジン・ザウルス、ヤモリンスキー、チロと原色の花たち。これらに彩られた荒木さんのバルコニーは、一見すると廃墟から楽園へ変貌したかのように見える。しかし、何かが足りない。当然写っているべき何かがどうしようもなく足りないのだ。
 「写真は、まず自分が愛しているものを撮ることから始めなくてはいけません。そして撮りつづけていなくてはいけません」個展「わが愛、陽子」を開催した昭和52年、荒木さんが高校生へ向けて書いた文である。陽子さんという愛する人を亡くした荒木さんは、この言葉を実践することが出来なくなってしまった。これだけ大きな荒木さんの気持ちを受け止めることが出来る存在。やはりこのバルコニーには陽子さんが必要なのだ。夏の日の午後、バルコニーでのんびり日光浴をする陽子さんの姿が思い浮かぶ。
 荒木さんはこれからもこのバルコニーを撮影しつづけるに違いない。それは陽子さんと過ごした「時」を丁寧になぞっていく行為だからだ。陽子さんが作ったバルコニーの楽園は、廃墟になり、再び楽園になることはなかった。

2000年2月8日記