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荒木経惟写真全集10
チロとアラーキーと2人のおんな
Chiro,Araki and 2 Lovers

 「猫が好きか」と聞かれれば、「そんなに好きではない」と答えるだろう。路地裏でたくましく生きる彼らは、人間に対して警戒感を持ち決して媚びることはない。人間が置いた餌でも、つまらなそうに食べ、残したりする。そんな姿を見ているうちに「勝手にやればいい」と気持ちを決めてしまっていた。

 荒木さんの写真を語る上で欠くことのできない存在の筆頭は、言うまでもなく陽子さんである。その陽子さんが亡くなる少し前に連れてきた生後4ヶ月のメスの仔猫がチロである。あまり猫のことを好きではなかった荒木さんだったが、「ネコロリコロリ」と媚態されると、チロの魅力にコロッといってしまった。甘えられればかわいくない筈がない。
 子供のいない荒木さん夫妻のなかにあって、チロが娘のような存在になることはむしろ当然で、歳をとってからの”子供”であるチロは二人にかわいがられた。写真集「愛しのチロ」には”両親”が代わる代わるシャッターを押した瞬間が何枚も記録されている。陽子さんにお風呂に入れてもらっているチロ。原稿執筆中の荒木さんとチロ。昭和最後の日にソファで荒木さんとツーショットなチロ。ソファで昼寝する荒木さんのお腹の上で一緒に昼寝するチロ。酔っ払って深夜帰宅した荒木さんに宙吊りされるチロ。そして、荒木さんと一緒に雑炊を食べるチロ。特に最後の雑炊を一緒に食べている荒木さんは、天才写真家アラーキーの表情をしていない。大切な家族と一緒に食事を楽しんでいる父親の表情になっている。この雑炊を作って、一緒に食べているところを写真に撮ったのが”母親”の陽子さんであることを考えると、画面に写っていなくても陽子さんは”写っている”といえる。やはりこの瞬間は荒木さんにとって永遠のものなのだ。
 写真は記録である。幸せだった瞬間も不幸に思った瞬間も冷徹に記録する。将来が今より幸福なら、その写真を振り返る機会は少ないかもしれない。しかし、写真に記録した時のほうが幸福に思えたとしたら、時間を巻き戻しすることは出来ないだけに、むしろ残酷な存在となる。記憶は絶対的なものではない。そのときの気持ちによって揺れ動く相対的なものだ。絶対的な存在である記録(写真)も、見るときの気分によって相対的な存在にならざるを得ない。しかし、荒木さんはきっと写真になった瞬間の気持ちを思い出すことができるのだろう。”現在の気持ちから見た写真”というかかわり方ではなく、写真はそのときの気分をよみがえらせるきっかけなのだ。そのため、幸せな瞬間はいつまでも幸せでありつづけ、つらい思い出も写真にした以上、つらいまま荒木さんの中に存在しつづけるはずだ。

 映画「ブレードランナー」のなかで、レプリカントたちは”あるはずのない小さい頃の思い出”を必死にまさぐっていた。レプリカントであるレイチェルは製作者タイレルに与えられた写真と思い出が自分のものではないことを知り、苦悩していた。ロイは機械としての”寿命”が来た瞬間、遠い星で経験したつらかった思い出を語り、消えていった。幸せな思い出もつらかった思い出も、人生の中では欠くことのできない同等な価値を持つのだ。思い出の持つ大切な力。映画を見ながらそんなことを思った。

 この第10巻では陽子さんの死ののち、「東京日和」で悲嘆に暮れる荒木さんが描かれ、「東京猫町」で東京という都会のなか、たくましく生きる猫の力強さを魅力的に捉えたあと、現在のチロとの生活が載せられている。小娘だったチロも荒木さんと生活するうちに成長し、いまや荒木さんをして「陽子がいなくなってからは、チロが陽子かなって思わせるところがある」までになった。こうして陽子さんがいなくなった後もチロとの写真生活は続くことになった。荒木さん夫妻から注がれた愛情は、チロのなかで温まり、やがて陽子さんの死で冷えかけた荒木さんの心を温めなおした。「センチメンタルな旅・冬の旅」の最後の写真、雪のバルコニーを跳ね回るチロには涙した。きっと荒木さんを励ましていたのだ。人間の気持ちをここまで掬い取れる猫という存在の大きさを感じると同時に、荒木さんは猫を撮らせてもウマイんだなぁ、と思った。

2000年2月1日記