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荒木経惟写真全集1
顔写 Naked Faces

人間の顔には大きな意味がある。人形だって「顔が命」と言うくらいであるからそれはアタリマエなのだが、時には人生の方向を決定付ける大きな要素になるだけに、その重要さは大きい。そんな重要な意味を持つ「顔」をこれだけの数並べられると見る者は落ち着かない。ページをめくるたびに被写体が立ち上がってこちらを見つめてくるからだ。
荒木さんの写真は大きく分けて二種類ある。すなわち、「仕事」で撮った写真と「私事(しごと)」で撮った写真。第一巻の前半は、私事写真。銀座、上野、地下鉄車内など、通りすがりの人の顔を執拗に撮り続けている。広角で、望遠で、テレビ画面から、と、撮りまくっている。とにかく、世の中にはこれだけ「顔」が溢れ返っているのだ。
60年代に「顔」こそが写真だと思っていた、と言うだけあって、荒木さんの顔を撮る異常なまでの執念には圧倒される。自分ならどうだろう。通りすがりの人間の顔を写真に撮りたいと思って、実際にレンズを向けて見知らぬ人間を狙ったとしても、きっと一枚も撮ることなどできないだろう。「何であなたは事件も起きていないのに写真を撮るのか」と警官に”写真論”をふっかけられるほど、それは常軌を逸した行為と見られるのが普通だからである(その時は「日常の中に非日常がある」と返したそうだ)。
写真学校の学生さんと見られる人が、渋谷のスクランブル交差点でニコンを振り回している場面によく遭遇するが、あの人たちの中ですこしでも見知らぬ人にレンズを向けて「つらい」と思いながらシャッターを切る人が居たとしたら、その人は普通人であって写真家には向かない。そういったモラルを突き破ることができない限り、写真家として通りすがりの人の顔を狙ってレンズを向けるのは不可能だ。モラルを突き破る、それは文学に直結することがある。そう考えてみると写真表現は文学行為に似ているといえよう。普通人の顔から表現を生み出す、荒木さんは文学者でもあるわけだ。
後半は「仕事」写真が中心だ。雑誌のグラビア写真の依頼でいろいろな有名人を写真に撮っているが、キャプションは一切付いていない。有名人と普通の人がごっちゃに並べられて、そのどれもが顔写真として立ち上がってくるため、一体何をして「有名人」であるのかわからなくなってくる。解説の赤瀬川原平さんが言っている事だが、「有名人の有名性が剥がされた「有名」の皮の部分が浮き上がってきて、それがまた見もの」なのだ。有名人が有名人として写真に写るためには有名人である「何か」を持っていなければ有名人として写真には写らない。これだけ価値観が多様化した現代にあって「有名人」であり続けるのは並大抵の才能ではないということだ。それとも普通人を有名人並みに表現してしまう力を、荒木さんの写真が持っているからなのだろうか。

1999年11月30日記