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写真劇場東京エレジー 荒木経惟
冬樹社 1981年10月20日発行
 この写真群が撮影されたのは1967~72年ということになっている。当初1972年に写真評論社から森山大道氏の「写真よさようなら」と組で発行されるはずだったこの難解な写真群は、森山氏の方は発売されたのだが、荒木さんの方は中止となった。結局その企画は長くお蔵入りとなり、これが日の目を見るには冬樹社から発売になる1981年を待たなければならなかった。

 虚と実。虚構(ドキュメンタリー)と虚構(イリュージョン)。プロとアマチュア。写真と現実。そして、生(エロス)と死(タナトス)。荒木さんの写真世界を見ていくうえでキーワードとなるこれらいくつかの要素。その中でも一番表現的に力を持つのは、やはり生と死であろう。この写真集では「死」について、荒木さんの持つイメージが一冊に結晶している。

 冒頭から連れ込み宿でのSEXが描かれる。薄暗い蛍光灯に照らし出された浴衣姿の男女二人。その男女の”コト”が連続写真によって映し出される。当時荒木さんの右腕だった丸刈りの八重幡氏と眼帯をした池田氏の二人は、この場面のほかにも写真集の全編にたびたびからみの男優として登場する。
 はだける浴衣、絡み合う男女、鷲摑みされる乳房、ゆがむ表情。とても快楽としてSEX行為をしているようには見えてこない。まるで傷つけあい、殺しあっているような場面にさえ見えてくる。それでも本能的にお互いを求めてしまう人間の哀しさ。解説の伊藤氏がいう「小さな死としてのセックス」のニュアンスが滲む。
 その直後に来る葬式の写真。荒木さんの実父長太郎氏の葬儀だというのだが、これでSEXと死が同列なものとして提出されてしまった。浴衣を着て茣蓙の上に寝かされた氏の顔は意図的にフレームアウトされている。数珠を持った手は腹の上で組まれて、腕には刺青が見える。葬儀に写真機を持ち込むのは、頼まれカメラマンがしてきた”仕事”だった。ところが、親族席に着くべき立場にいた筈の荒木さんは、写真家としてカメラをこの場に持ち込み撮影に及んだ。自分の父親の”送り”としての儀式を”写真家として”受け止めようとしたのだろうか。
 浄閑寺で営まれる葬儀の様子。弔問に訪れる人が長い列を作り、祭壇前では読経が響く。挿入される浴衣を着た陽子さんの写真。その儚げなグレートーンと相俟って、この世の人ではないような印象である。葬儀から焼き場へ。「骨になるまでの「時」を全部記録するんだって思ってやってたけど、写真に徹するっていうより、もしかしたらシャッター押すことで悲しみを紛らわそうとしてたのかもしれない。」と全集15巻のあとがきで荒木さんは語っている。

 穴の開いた日の丸、潰れたアサヒ缶ビール。河原で、スタジオで絡み合う男女。ゼロックス写真帖にもある矢口栄三郎氏の写真。目が離れていてもともと強い表情の男に、広角レンズをつけて接近写という手法で撮りこむ。中絶した女性の手記の複写。その壮絶な内容に身の毛がよだつ。「膣にブツブツが!」の雑誌投稿記事の切り抜き。体位四十八図の傍らに置かれた往生要集。地獄絵。男色。仮面。乱交。ゆるやかな表現もあれば、激しさをそのまま”コト”として連写して撮ろうとする荒木さん。共通する印象は、全て”死”である。

 

 解説の西井氏はこう書く。「荒木の写真はどれもごく日常的にころがっているものでできあがっている。ただ女のハダカの写真がなんとも無愛想でウンザリするほど大股開きでエゲツない点が他の写真家と異なっている。しかし、荒木のヌード写真は、それを見ながら自慰をするといったものではない。篠山紀信の激写と対象的に、荒木の劇写は性的にイメージ化されることがない。女が着衣をはがされていって裸にされたのではなく、ハダカの女がそこにいるのだ。(中略)つまりすべて風景になってしまうのだ。裸のいる風景、妻のいる風景、家から見える風景。したがって、荒木の写真では、あらゆるものは風景の構成要素となり、小道具となる。そこですでにものとなった母親の死体がそこにあったりすると逆に実に生々しくリアリティを加速するのである。風景の中では生きものがモノ化し、モノが生々しく見えてくるのである。」つまり、荒木さんの写真的”眼”は、モノに付着するイメージをはぎとり、裸をハダカとして、SEXを性行為としてとらえていく。簡単に言ってしまえば、篠山紀信はハダカに”美”という要素を塗りつけて、性的イメージを増幅させて”抜ける”写真に仕立てるが、荒木さんはむしろ写真にすることで余分なイメージを削ぎ落とし、ハダカはハダカのまま写してしまう、というのである。そのため、SEXの描写をしても性的イメージが増すどころか、いい歳した男女がハダカで恥ずかしい格好をして何をやっているのだろう、という滑稽さが際立ってくる。男女の性行為が二人の愛の交歓足り得るには、お互いの「想像力」(西井氏)をプラスする必要があったのだ。荒木さんの写真が本質にこびりついたイメージを剥ぎ、風景として男女の性行為を炙り出したためにわかったことである。

  それと同様にして、人の「死」もまた「想像力」によってイメージが増幅されていることになる。
 人の死は死であり、それ以上でも以下でもない。しかし現実には、国によって、宗教によって、身分によって死んだ人間の葬られ方は異なっている。そこにイメージの増幅が存在するのは明らかだ。”風景として”死体がその場にあったとき、読経され焼き場で焼かれて骨壷に入れられるのが”人の死”なら、飢餓で倒れハゲタカのエサとして食われるのは同じ”人の死”になるのであろうか。無論、どちらも同じ”人の死”であることは動かないのだが、現実のあまりの落差に慄然とせざるを得ない。宗教という想像力を削ぎ落とされてしまったとき、人の死はえげつないほどに残酷なものとなるのだ。

 

 両親、そして陽子さん、と、荒木さんが肉親の葬儀に殊のほかこだわって写真を撮り続けてきたのには、写真家として「死」のある風景を写すことで、「死」とは一体何なのかを探っていく行為だったのではないだろうか。生きている人の数だけ人の死がある。永遠の命など何処にも存在しない。いつか必ず消えていく運命を背負った人間という存在に対して、荒木さんは哀歌(エレジー)を捧げたのだ。

2000年12月12日記

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