◆私説東京繁昌記 写真・荒木経惟 文・小林信彦 中央公論社 1984年9月20日発行


私説東京繁昌記 写真・荒木経惟 文・小林信彦 中央公論社 1984年9月20日発行

小林信彦氏の私的東京論が文芸誌「海」に連載された。1983年から84年にかけてのことである。著者小林氏の依頼で、荒木さんがカメラマンとして同行した東京の記録がこの本にまとめられた。
小林氏の流れるような、時に立ち止まるような文章は、ご自身が過ごしてきた東京での時間を振り返りながらも、昔を懐かしむだけのものにはなっていない。その博学さに感心しながら、東京を想う気持ちに同感しながら、読者は読み進んでいくうちにすっかり街へ出て行きたくなっていることに気が付くだろう。無論、文中に添えられた荒木さんの写真が、その気持ちを大きく後押ししている。

小林氏の記述によれば、荒木さんの写真はすべてプラウベルマキナW67で撮影されたもののようだ。1983年から84年にかけての東京の姿が6x7の緻密な絵で記録されている。東京を歩くことが好きな人なら、文章を読まずに写真とキャプションを追っていくだけでも充分に楽しめる。

 明治通りと表参道の交差点には、サントリー缶ビールのペンギンも懐かしいセントラルアパートがかつて存在した。米軍関係者が居住していた場所、という”羨望”もこの街のイメージをアップさせた。原宿が竹の子族など、若者が集まりファッションの街になったきっかけは、練兵場、ワシントン・ハイツなど、米軍関係の施設がオリンピックを機に立ち退いたことに起因するらしい。
 新宿南口駅前にはかつて小山が存在した。臭い公衆便所、新旧の階段と飲み屋街。我々若僧には一種近寄りがたい雰囲気があったこの一帯は、筆者が大学生の頃にはまだ残っていたような記憶がある。それからすぐに取り壊しが始まり、現在はその山があった場所にはなにもない。フラッグビル前の広場と化してきれいに舗装され真っ平らである。新宿にはいくつか戦後のなごりが現存しているが、アルタ前広場の映画広告看板下からくぐっていく西口へのトンネルと思い出横丁はその代表格だ。

 佃島は一等地・銀座との距離が意外と近いにもかかわらず、開発からは遠のいた存在だった。江戸時代に人足寄場だった石川島、大阪の漁民をルーツに持つ佃島と住吉神社。渡し船が主要な交通手段であった時間が長かったためかもしれない。荒木さんの写真には佃小橋付近の掘割に密集する釣り船と、ハゼ釣りする少年たちが見られた。現在はリバーシティ21に代表される再開発が完成し、船宿は一軒を残すのみとなった。地下鉄月島駅が開業し、高層マンションが建ち並んで島の様子も人の流れも急激に変わろうとしている。
 代官山にはかつて同潤会アパートがあり、大正モダンの落ち着いた佇まいが街全体の雰囲気をどこか文化的なものに決めていた。それも近年再開発で取り壊され、代官山アドレスという高層ビルが立ち上がった。そのビルにはかつてあったイメージはほとんど残っていない。

 浅草の六区にはアール・デコ調の映画館がまだ健在だった。近くには屋台が並び、浅草独特の雰囲気を作り出していたように思う。まだ筆者が小学生の頃、浅草寺に初詣に連れて行ってもらったときにこの通りを通った。正月という時期も時期だけにとても賑わっていた印象が強く残っている。仁丹塔もたしかまだあった。
 谷中銀座のつきあたりには「夕焼けだんだん」という階段がある。文中の写真には「大衆割烹花寿司」という寿司屋さんが階段の途中に店を構えていた当時が写っている。子供たちが階段で遊んでいる姿が印象的である。このイメージが長いこと筆者の中にはあって、初めて谷中を訪れた時には夕焼けだんだんのこの風景を真っ先に探した。果たして、そこにはかつて花寿司の建っていた基礎のみが残り、猫が日向ぼっこをしていた。

 そして、筆者第二の故郷、神保町である。小林氏は無類の映画好きなのか、神田神保町といえば東洋キネマを連想したらしい。この映画館は、筆者が神保町の古書店に勤めだしてからも建物はしばらく残っていた。建築史上で言っても日本のダダイズム建築唯一のものとして非常に価値のある建物だったのだが、気が付いたら取り壊されていた。更地(駐車場)にするために壊すなんてもったいないことだ。小林氏は東洋キネマの当時弁士をしていた徳川夢声の消息を三國一朗著「徳川夢声の世界」を引用しながら事細かに語る。玄関先に新幹線とD51の頭部が看板になっている「交通博物館」が、かつて万世橋駅だったことは、この「徳川夢声の世界」文中にある地図で知った。
 「神田は知らねえなあ」とつぶやく荒木さん同様、小林氏にとって神保町はあまり思い入れのない街らしい。古書店街へも「もう少し、身ぎれいにした方がいいと思う。」と苦言を呈し、営業努力の不足が活字離れの原因の一つになっている、と手厳しい。神田明神を撮影した後、荒木さんのプラウベルマキナが故障し、代わりのカメラを届けて貰うことになったのだが、それまでどこかで待機しなければならなくなった。<かんだ藪>が休みで、<まつや>に入り、小林氏は熱燗に名物の雲丹を注文。荒木さんはざるで酒を飲みたいと、天種を注文すると、それなら天せいろの方がお得です、と教えてくれたそうだ。鳥すきの<ぼ多ん>、鮟鱇鍋の<いせ源>、洋食の<松栄亭>、甘味の<竹邑>と、小林氏がご近所の方が羨ましいと紹介する名店が軒を連ねるこの界隈。いずれも元気に現在も営業中である。

 終章を書き終えたあとで小林氏は、「荒木氏からいっしょに町を歩いて欲しい、と言われ、第一章から終章まで、すべて、同行することになった。たんに、文章に写真をつけるのではなく、相互に影響し合わなければ意味がない、というのが荒木氏の説で、まことにもっともであり、青山を歩いた日に、私は荒木氏がエキサイトする対象がわかった。」と語っている。青山や神楽坂の路地裏の細かいところに都市の面白さを発見していく荒木さんの観察眼のスルドサは、小林氏もよく理解するところとなっていたようだ。

 そのあとがきで、この連載記事が終わった後にすぐ単行本化したのだが、撮影した時にはあった佃小橋や神田日比谷ホテルが取り壊されて、東京の変化はかくの如く早いとあった。確かにたった20年足らずで、この本に写っている街はほとんど残っていない状態となった。欧州の大都市では「中世の面影を今に伝える」ような街はごろごろしているのに、東京では20年と伝わらないのだ。
 ”エキサイト”しながらも冷静に東京を見守りつづける荒木さんの視線。東京の街はこれからも荒木さんの被写体たり得るのだろうか。

2000年10月17日記

2017-04-02 | Posted in 荒木経惟写真集Comments Closed 

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