2006年9月台場 LEICA M6TTL GR28mmF2.8


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9月半ば。曇り空。

毎週出かける場所を考えるのが大変だ(^^;。娘は「海を見に行きたいー」とリクエスト。すでにお昼少し前だった。じゃあお台場へ行こうかな。電車で行ける海岸というと手抜きだがここになる。
大井町からTWRで東京テレポート。歩道橋を渡る。お昼時なのでちょうどイタリアンのファミレスを見つけて昼飯を食べる。お子様ランチが199円という驚異的安値だったため、ラーメンを食べたくらいの金額で腹いっぱいになった(^^;。

お台場海浜公園に出る。わざとらしいほど白い砂。ビーチバレーの大会がついこの間まで開催されていたからか、今日もコートでイベント開催中。水辺で遊ぶ子どもたち。波は静か。少し北風が吹いて涼しい。娘は貝殻を探すと言いながら海の底をほじるが見つからない様子。すぐに飽きて砂遊びを始めた。このあたりの切り替えは早い。

砂浜の際まで木のデッキがあって、なんとなく座りやすいからいろんな人が一列に並んで海を向いている。正面にはレインボーブリッジ。お台場の緑とのコントラスト。その向こう側から遊覧船がひっきりなしに来ては出て行く。

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のんびりしててもいいんだけど、あの台場へ行ってみない? 「うん、アタシも一度行ってみたいと思ってたんだよね」と女房。そんなに遠くないと思うよ。行ってみよう。砂遊びに夢中の娘を急き立てて台場へ向かうことにした。

水際を歩くと砂が固まっていてそれほど歩きづらくない。波も鎌倉の七里ガ浜に比べたらほとんど無いに等しい。水は結構きれいで底まで見える。でも魚が居ないね。鵜が居るからきっと魚も居るはずなんだけど。
もうすぐ石垣という場所まで来たら居る居る。水面直下に小魚が群れていた。でもここに鵜がいないのはなんでだろ?

台場は言ってみれば砲台場だ。黒船が江戸湾に侵入できないようにペリー来航の翌月から着工され、わずか1年3ヶ月で6基造られたと説明書きにある。我々が立った場所は第三台場。昭和3年に東京市が整備して公園として開放されたとある。江戸時代の建築技術は築城で鍛えられていたから相当高かったはず。特に江戸城は城下全体を地上と地下の二重構造にする位の発想で造られていた。台場が完成したので江戸湾に黒船は入ってこれなかった。

石垣に設置してある階段を上がると台場だ。 黒松が外周に植えられている。その内側は落ち窪んで平坦になっていて、番屋の跡や弾薬庫の横穴が幾つも開いていた。ここが幕末当時の国防最前線だった。右回りに外周を歩く。どーんと眼前にレインボーブリッジ。よく見ると徒歩で渡っている人が居る。今度来た時は渡ってみますかね。橋脚の間から汐留の高層ビル街、東京タワー、晴海ふ頭が見えた。

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いつも眺めている風景の反対側から見る。海浜公園の砂浜の向こう側に立ち並ぶビル群。マンションにTV局、ショッピングモールとホテル。丸い観覧車が視界の端に入ると風景全体がまるで幾何学模様の組合せのように無機的に見えてくる。・・・とんでもない。この風景こそ”人間そのもの”だ。わざと無機的にカモフラージュしているだけなんだ。

もと来た道を帰る。すると急に雨が降り始めた。2本持ってきていた折り畳み傘を差す。顔は濡れなかったがはみ出した肩から腕が濡れた。あわててショッピングモールに逃げ込んだ。中にはウチのように雨宿りしに来た人たちで溢れかえっていた。

LEICA M6TTL GR28mmF2.8

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今年の夏はずっと東京の地下に関する本を読み続けた。その本の著者は地下鉄に関する謎から筆を起こし、東京に巨大な地下網が戦前の段階で完成していた、という推理を働かせる。現在の地下鉄網は戦前からあったというのだ。その真偽は確かめようがないと言いながらも、そうとしか考え られないと述べている。
地下網を作らせた動機は国防だった。宮城を防衛すること。外国に攻め込まれ宮城を占領されたら負け、というのが当時の認識だった。国会議事堂のある永田町付近には縦横無尽に地下ルートが張り巡らされ、東京の各地に散らばっていた軍事施設へと伸びていたという。戦後になってその地下施設は徐々に国民の前に姿を現した。それは地下鉄だったり、首都高速のトンネル区間だったり、地下貯水池だったり、巨大な地下駐車場という形だった。首都高の三宅坂ジャンクションは高速道路としてあるまじき構造をしていたり、貯水池や地下駐車場はいつ掘られたのかことごとく記録がない、と著者は言う。
近年になって東京の各地で巨大ビルが建つ再開発や、主要道の真ん中を長い間占拠する工事(多くは共同溝の工事となっている)が目立つ。銀座線の溜池山王駅、丸の内線の西新宿駅の開業が最近になったのにも理由がある。この本によればそれらの工事はコンクリートの寿命 に由来するというが、数年前に起きた御徒町駅前の陥没事故と関係があるようだ。
徳川家康は江戸城を作るとき、埋め立てて地上と地下の二重構造にした。当然防衛上の理由だった。東京の地下はここから始まっていた。台場は江戸湾に入って来る黒船を迎え撃つため幕末に突貫工事で設置された。大砲術の進歩によって砲弾の射程距離が数百メートルから数キロに伸び、台場はその役目を終えた。昭和3年に台場公園として開放されているのはその証拠だ。代わりの砲台が高輪や巣鴨のあたりに設置されたのは間違いないというが、やはりその証拠はない、と著者。
詳しくは新潮文庫から出ている秋庭俊氏の著書を参照されたい。

2006年09月25日記

2016-01-06 | Posted in 甘露PHOTO日記Comments Closed 

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