『アメリカン・スナイパー』


雨が降ったりして暑さが一段落している。南海上を台風14号が北上中。

朝飯を食べて仕事開始。荷造り作業を鋭意。いつもお買い上げありがとうございます。

昨夜は借りてきたDVDでクリント・イーストウッド監督『アメリカン・スナイパー』を観た。湾岸戦争で”活躍”したスナイパー(狙撃手)を描いている。主人公の彼が亡くなった時、国葬(のようにも見える)に近い形での葬儀が営まれた。
日本の戦争映画とはまったく描き方が違うことにまず気づく。近年つくられる日本の戦争映画には”敵”がほとんど登場しない。何と戦っているのかがはっきりしない。描けない。そのため、大抵は戦争の悲惨さだけが描かれる。敵を描けないからか、主人公は自分の置かれた戦場という現実と持つ武器という暴力に対して内省を繰り返して悩みぬく。
アメリカの戦争映画には敵が画面に登場する。今回はイラク戦争。”敵”はイラクの人たち。それも、市街地でのゲリラ戦なので、一見兵士には見えない民兵が”敵”だ。
たとえ女子供でも、武器を持って隊に近づいてくれば”敵”と認識して狙撃する。それが彼の任務。160人狙撃して彼は英雄となる。あだ名は”伝説(レジェンド)”。すべて皮肉ではない。彼の仕事は映画でほぼ肯定されている。
気づいたことが一つ。日本映画には人がどんなに頑張って努力しても踏み越えられない一線がある、というニュアンスが含まれていることが多い気がする。ある種独特の翳が見えるとでも言ったらいいか。ところがアメリカ映画にはそういう翳がない(ように見える)。必死に努力すれば乗り越えられないことはない、という世界観があるような気がする。
悪は滅び、善は必ず勝つ、みたいなカラッとした何か。でも、何を根拠に自分は善で相手は悪と決められるのか。そこを考えるプロセスまでカラッとすっ飛ばしている。
女子供がどうして武器を持って戦車に向かってくるのか。自分が撃ったのは本当に”敵”だったのか。その理由を彼らには少しでも考えてほしいな、って思った。
1416歩 0.84km 14分 69.7kcal 1.0g

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2015-08-10 | Posted in 甘露日記Comments Closed 

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