坂の上


快晴の空。
朝飯を食べながら「坂の上の雲」を見る。長いのでさすがに全部一気には見ることができない。昼飯の時と分けて見た。
第一部・第二部とドラマ部分をクローズアップしていたため、全体として当時の世界情勢が伝わりにくいことになっていた。その流れのままで日露戦争の描写に突入したため、やっぱりマクロ的視点での日露の関係がすこしわかりにくい。そもそもなぜ日本とロシアが戦争をするのか、という点も含めて。
さすがにワタシは原作を2回通読しているので、ドラマで描かれている部分と省略された部分。原作に比べて誇張されている部分やぼやかしている部分もおおよそ分かる。ドラマならではなのはやはり旅順要塞の様子やバルチック艦隊の様子だ。小説の描写では見たことないだけに想像しようもないところだった。あの山の上に据えられたでかい大砲はなんて言うんだろう。
原作で著者・司馬遼太郎は乃木希典第三軍司令官と伊地知幸介参謀長の二人を口を極めて罵っている。ドラマ内でもその点はニュアンスをにじませる程度に描写していたが、該当するナレーションはなくて批判の色は薄められている。総攻撃は3回。大勢の犠牲者を出したが、しかし、突撃の繰り返しに過ぎず要塞に対してかすり傷ひとつ付けられなかった。
切れ切れに今月の文化系ラジオを聴き続けている。テーマはゲームと社会設計。ゲーム理論的に社会的なしくみを考えることはできないか、という話に最後は持って行っていたが、途中では、ゲームなら夢中になってやるけど勉強はやらないのはなぜか、という話。や、ゲームにある共通ルールをどう作るかによって参加者が楽しめる楽しめないの差ができるが、その決め方をどうするのか。そんなことを緒にゲームとソーシャルの関係性を論じていた。
参加者が楽しめなければそのゲームは続かないし参加者は増えない。そう考えるとゲーム的に仕組みが決められていることはそこかしこに見えてくる、という。
”暗黙の内に”してはイケナイことが存在するのが伝統社会。まず参加するためには存在するルールを守ることが条件になるのが実験社会。番組中ではその実験によって国家が作られた例としてソ連とアメリカ合衆国を挙げていた。
(たまたま)二つの番組に通底しているのは、共通認識を作ることの難しさ、についてだったように思う。第三軍参謀長は砲兵出身の専門家だった。歴史の結果からすれば彼の意見も作戦も間違っていた。が、一方で組織は彼を参謀長から降ろすことが出来なかった。降ろせば降ろしたで最重要な軍の統率がダメになり戦闘そのものが継続不可能になってしまったかもしれない。たとえ正解であっても合理的に押すだけではおそらく共通認識にはならない。人の口の数だけ合理的理由があるからね。それが正解である、という共通認識が組織内でできないと、それがたとえ正解でも正解として認めてもらえない。
結局、大きな犠牲を払って遠回りをしなければ旅順は陥落しなかったのかもしれない。大きな犠牲を払ったことで初めて組織内で203高地・28サンチ榴弾砲という正解が見えた。近代という名の”世界常識”が旅順要塞という形となって日本の前に立ちはだかっていた。
既存のルールに乗るのか、新たなルール作りを勝手に進めるのか。それは各々がそれぞれ考えて判断することだ。
新たな壁が見えた時、既存の方法では突破できないことがある。そんな時、その壁を罵るのも一つの考えだが、そんなことをしても無駄と思えば新たなルールを作って自ら走りだすしかない。「坂の上の雲」のハイライト・日本海海戦の東郷ターンは、敵の目前で艦隊が回頭するという常識外れの作戦だった。しかし、結果完全勝利を収めたことで海戦の概念を変えたと云われている。そこにヒントはないだろうか。
8240歩 4.94km 67分 460.7kcal 20.6g
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2011-12-05 | Posted in 甘露日記Comments Closed 

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