古本屋は天職か?


金曜、明古。

市会終了後、扶桑書房・東原武文さんをお迎えして明治古典会公開講座が開かれた。テーマは東原さんが扱ってらっしゃる文学雑誌について。当時文学作品は書き下ろしで発表されることはほとんどなく、文学雑誌や新聞に連載などの方法で発表された後に本としてまとめられた。つまり名著も最初文学雑誌に載っていたのだ。
後に本としてまとめられる時に、その一部が編集によって削除・改変されることがあり、研究者は最初雑誌に出た時の文章(オリジナルに一番近い形)にまで遡るのが普通の流れとのこと。編集によって失われた部分を補う意味が出てくる。雑誌を扱う事の面白さと価値。

一次資料としての文学雑誌の需要は現在も確実に存在するとのことだった。

そのあと、「古本屋は天職か?」という話題へ移行。電子出版が始まり、テキストとしての本はオリジナルが一部でもネットで公開されればそれが瞬時にして世界中に配信されてしまうから、出版という現在のカタチを解体してしまうのでは?という話に。現にネット上で人気作家が自サイト上で作品を発表するようになっている。読者と作家が直接繋がり、パッケージとしての”本”の必要性が薄れ始めている、ように見える。

だが、現実にはどうなのだろう。

人間には趣味・嗜好がある。本当に必要なものだけで生活していくとしたら、そのスタイルはかなり瘠せた寂しいものになりはしないだろうか。
たとえば人気作家の最新作がネットで読めるとする。しかし本当のファンはそれでは飽き足らなくなるのではないか、と思う。読むだけではファンとしての想いが昇華しきれない。パッケージとして、モノとしての何かが欲しくなるのではないか。

テキストとモノ。この2つの要素を本は内包している。もしテキストだけの価値しか認めないならば、本は読まれてしまえばそれで価値の大半は消化されたことになる。装丁にこだわる必要も無い。ただマッサラな表紙にフォントでタイトルが書かれていればいい。
ところが、モノとしての価値を考えれば、本には全く別の魅力が立ち上がってくる。好きな装丁画家の絵が表紙を飾っている本。それだけで内容とは関係なく持っていたいと思う人は絶対に居なくならない。「見て楽しい本」。

本が売れず、出版業界が危ないという。これからの時代、どんな本が価値を持っていくのか。そしてこういう時代に古本屋はどうなるのか。

いろいろと勉強になった。

2002-03-02 | Posted in 甘露日記Comments Closed 

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